【特別寄稿】造形家 / 映画監督 片桐裕司の いろいろあっていいんじゃない?|エピソード93:1990年代のハリウッド特殊造形業界

ハリウッドで彫刻家、キャラクターデザイナー、映画監督として活動。日本で開催する彫刻セミナーは毎回満席の片桐裕司さんのエッセーです。肩の力を抜き、楽しんでお読みください!


片桐 裕司 / HIROSHI KATAGIRI
彫刻家、映画監督

東京生まれ、東京育ち。1990年、18歳のときに渡米。スクリーミング・マッド・ジョージ氏の工房で働きはじめる。98年にTVシリーズ『Xファイル』のメイクアップでエミー賞受賞。その後、『ターミネーター』『エイリアン』『ジュラシックパーク』のキャラクタークリエーション等で有名なハリウッドのトップ工房スタンウィンストン スタジオのメインアーティストとして活躍(2000〜6年)『A.I.』『ジュラシックパーク』『タイムマシーン』『宇宙戦争』等の制作に携わる。現在、フリーランスの造形家、映画監督として活躍中。
東京生まれ、東京育ち。1990年、18歳のときに渡米。スクリーミング・マッド・ジョージ氏の工房で働きはじめる。98年にTVシリーズ『Xファイル』のメイクアップでエミー賞受賞。その後、『ターミネーター』『エイリアン』『ジュラシックパーク』のキャラクタークリエーション等で有名なハリウッドのトップ工房スタンウィンストン スタジオのメインアーティストとして活躍(2000〜6年)『A.I.』『ジュラシックパーク』『タイムマシーン』『宇宙戦争』等の制作に携わる。現在、フリーランスの造形家、映画監督として活躍中。

エピソード93:1990年代のハリウッド特殊造形業界

Special Make up Effect(SFXメイクアップ)業界に 私が入ったのは 1991年おわりの頃。今も尚、この業界で仕事を続けているわけですが、今回は、長いスパンで見た時の業界の移り変わり、人間の移り変わりなどをお話ししたいと思います

90年代は この業界の黄金期だったと思います。当時は まだ情報も少なく「どのようにクリーチャーがつくられているか」「特殊メイクがされているか」が広まっていなかったため、ロサンゼルス(LA)という街が、ハリウッド映画の仕事をほぼ独占していました。業界自体は、80年代前半から少しずつ広がっていき、90年代前半は、まだ、この業界の黎明期だったと言えるでしょう。

そして、時代は、VHS、レンタルビデオの全盛期でした。Full Moon という映画製作会社が 『パペット・マスター』(Puppet Master)などに代表される低予算のホラー、SF などを大量生産していました。

※ちなみに、この映画には私は携わっていません

常に、LA のどこかしらのスタジオで Full Moon の映画が作られており、かく言う私も、タイトルも覚えていないような 多くの低予算ホラー映画の制作に携わっていました。また、それと同時期に、LAでは、超大作映画なども制作していたので、ものすごく景気のいい時代で、新しい人たちもバンバン入ってきていたのです。

当時は 労働時間に関するルールもあってないようなもので、いいものを作るために徹夜もあれば、「土日も仕事」なんてこともいくらでもありました。ただ当時、そうやって働いていた人には「やらされている感」は全くなく、皆「映画に出てくるものを作れる」という 誇りと楽しさで仕事をしていました。

実際、私自身も、その頃は「あ~仕事行きたくね~」なんて思ったことなかったし「物を楽しく作って、お金をもらえるなんて、なんていい仕事なんだ!」としか思っていなかったです。

撮影現場などに行くと、待ち時間はとにかく、皆、楽しく遊んでいました。そこが アメリカのエンターテイメント業界の凄さだと思います。作る人が楽しみながら「どうだ! これすごいだろ~。面白いだろー!」という態度で仕事するので、いいものが出てこないわけがないのです。

「世界でまだ誰も作っていないものを作っている」「時代の最先端を進んでいる」 そういう感覚を持っていたし、それは事実でもありました。まだ、やり方も確立されておらず、新しい素材もどんどん出てきたりして、しょっちゅう、どうやって作ったらいいかの「実験」が行われていました。

私自身は、色塗りに関しての実験をする機会が相当ありました。特に、TVシリーズなどは毎回違うクリーチャーやエイリアンなどが出てくるので「今回は何色でこうしてみよう」とか 割と自由にさせてもらえる環境だったのです。

そんな風に任される 1つの大きな理由は、まだ インターネットが普及していなかったためで、「この色でいいのか?」「この造形でいいのか?」と監督やプロデューサーに聞く手段は、実際にスタジオに行くか、現像写真を Fedex(宅急便)で送るしかなかったためです。だから、よほどのことがない限り、出来上がってから「OK」を待つということがなかったのです。つまり、自分がこれでいいと思ったら、それが完成だったのです。

シリコンが初めて出た時、誰かが最初に実験して「この素材で塗れば 色がくっつく」という情報が出ると、それをまた別の誰かが応用して発展させたりと、業界内で情報交換しながら 技術が確立されていったのです。私自身も「フォームやシリコンをいかに透明に見せられるか」という塗り方を、自分の多くの経験から開発しました。なにしろ、塗り方が確立されていなかったので、自分で実験するしかありません。

ネットで検索したら出てきました! 懐かしい! 私が色を塗った『スターゲイト SG-1』(Stargate SG1)というTVシリーズのエイリアン。当時、この透明感はかなり驚かれました

人に教わったのでなく、自分で得たものは「宝」になります。当時は、皆で試行錯誤して作り上げてきたので、他の人から影響されることはあっても、直に手取り足取り教わるということは、ほぼありませんでした。

現在、私は 彫刻セミナー などで造形を教えていますが、私自身は造形や解剖学を人に教わったことはありません。生徒たちの中には「美術の基礎を教わってこなかった」とか「解剖学を知らない」とかいうことにコンプレックスを持つ人たちが多いですが、そんなことは、いくらでも自分で学べることで、それでも、ちゃんと上達するのです。

ちょいと予定より長くなってしまったので、今回は「90年代の業界の解説」ということで「どのように変わっていったか」次回 にでも書きたいと思います。

 

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